イグジットをデザインせよ——実在論的建築への道を探る

レクチャラ:仲山ひふみ / 批評家・現代思想研究者

日時:2019年8月25日(日)17:00〜20:00@東京大学工学部一号館三階講評室

メニカン#17では批評家・現代思想研究者の仲山ひふみさんにお越しいただき、ポストモダン以降の現代思想である、加速主義や思弁的実在論についての議論が行われた。

本議論の前置きとして、ポストモダンが、近代が終わった「後」のものであるという反省的=再帰的な自己意識によって支えられた時間概念であったのに対し、そのポストモダンが終わった「後」にやってきたとされる加速主義や思弁的実在論について考えていく際には、そのような歴史的パースペクティヴに支えられた時間概念さえもが成立しなくなるような時間性、いわば「ポスト・ポスト」的な時間性を考えることが必要であると述べられた。そこからポストモダン建築以降の実在論的建築への移行が思考される。

はじめに加速主義について、一般的には、ちょうどポストモダニズムが近代の終わりについての言説と見なされているのと同様、資本主義の終わりやその「超克」についての目的論的かつ終末論的な言説といった認識が持たれているが、それは正確ではないという指摘がなされる。加速主義の起源は、海外の匿名掲示板やブログコミュニティなどで自然発生したミーム的なコミュニケーション、ネット上のサブカルチャーであり、そのヘーゲル主義を思わせる形而上学的な外見は一種の「なんちゃって」であり、フェイクである。加速主義の重心はむしろ、資本主義の内部で生まれた新しいメディア環境の内部でのコミュニケーションを加速させることによって、資本主義自身の諸制約さえ突破して欲望の流れの脱コード化を推し進める(註)、いわゆるアンチ・オイディプス的な言説のほうにある。

次に思弁的実在論とは、人間が存在し始める以前の時間においても、人間という観察する主体無しに、実在的な対象それ自体が記述可能であり、近代哲学の伝統的な枠組であった相関主義(=観察の主体があらゆる経験の基底をなす)に対する転換的な言説である。メイヤスーの『有限性の後で』では「隔時性 diachronicité」という概念が登場し、主体としての人間が存在し始める以前と以後の時間を貫く、相関性を持たない実在論的な時間性のモデルが提示されている。したがって加速主義と思弁的実在論のいずれも、時間の哲学としての意味を持ち始めている。

さて、先に述べたように、ポストモダン以後では、様々な様式や概念の引用や折衷といったポストモダン自身が得意とした文化相対主義的な歴史主義とも異なり、観察する主体との関わりにおいて順序づけられた時間がそもそも成り立たない、パースペクティヴなき非時間的な時代が到来する。そこで、やや搦め手的な発想になるが、実在論を哲学史的にどう位置づけるかが、この新たな時間性とされるものの意味を探るうえでの鍵となる。

実在論とは、世界の根本的構造(=世界の中には何が存在するのかという問い)に関する存在論的な考察をベースにして、それらが「思考とは無関係に」端的に存在すると考える議論である。それに対立する概念は観念論であり、観念論とは逆に世界が根本的に観念によって成り立っている、つまり「思考されたものとして」存在すると考える議論である。

しかし、実在論を考える際に、ただちに問題となるのは、「物事が「思考とは無関係に」端的に存在すると「思考されている」」という事態をどのように扱うべきかということである。他にも、「真に実在するものは何か」という問いに「イデア」という答えを返したプラトンのように、「思考されたもの」こそが端的に存在し、「思考とは無関係」なものは一種の非存在(仮象)だと見なすような立場(パルメニデス的立場)に対する反論を、実在論は練り上げなければならない。実在論には、認識論的な基礎付けが不可欠であり、「実在するもの」をどのように認識するか、「実在」へどのようにアクセスするか、を考える必要がある。

というのも、その基礎付けが無ければ、実在論は他の様々な~論と呼ばれる立場に対して、対立しているように見えて実際には同意してしまっているといった状態に陥りかねないからである(例えば、「赤」という普遍概念があるとして、実際に「赤」そのものという抽象的な対象があるのか、それとも個々の具体的な「赤い」対象がそう呼ばれているだけなのかといった実在論/唯名論の論争において、「「赤」そのものは「赤い」のか」という問題が立てられた場合、実在論はどう答えるべきなのか)。結局、実在論を追求するあまりに観念論へのループに陥ってしまうという事態が、哲学史ではしばしば繰り返されてきた(見方を変えると、これも先に述べた相関主義的な循環の一種だと言える)。

実在論と観念論の(相関主義的)ループ。これこそが、加速主義もまだ十分そこから脱してはいないものとしてのポストモダニズムが抱えている病、デッドエンドの背後にあるものなのではないか。つまり、確かにポストモダニズムは、あらゆる事象を言語論的/記号論的な「参照の枠組」あるいは「構造」に還元することによって、現代的な「批判」の唯一無二のポジションを獲得した。しかし、そうすることでポストモダニズムは、自らが行う「批判」的な概念操作そのものを、同じ「枠組」ないし「構造」の中での諸要素の単なる位置ずらしの操作、テクスト論的/文脈主義的ゲームへと還元してしまったのではないか。その結果、「構造」ないしテクスト論的/観念論的前提そのものは「批判」の対象とならずに手つかずのまま温存され、「実在」と「観念」というタームが同じ相関主義的思考の「枠組」のなかで位置を交替しただけ、といった事態が生じることになる。ポストモダン的加速主義が、資本主義の終わりについてつねに同じ種類の言説(「資本主義を乗り越えるには資本主義をその極限にまで加速させればよい」)に依拠し、一種の反復を演じてしまうことの背景には、このような病理的構造が潜んでいるのではないか。これが実在論、ポストモダン、加速主義の三つの領域にまたがって観察される、ループする状況の真相である。

このループからの脱却が、本議論のテーマとなる「ポストモダンからのイグジッド」である。そのための逃げ道の方向性が議論される。一つは、思弁的実在論的な予測不可能さ(メイヤスーの「ハイパーカオス」やティモシー・モートンの「ハイパーオブジェクト」など)によって乗り越えること、もう一つは、加速主義的な怪奇さ(weirdness)によって乗り越えることである。そして、いくつかの事例、VaporWaveの音楽やマーク・フォスター・ゲージの建築作品から、加速主義者の語る都市像などが紹介され、ループから脱出するための主要な迂回路として、ホラーの想像力があるのではないかという議論がなされた。

以上が、本議論の概要であったが、議論を終えて個人的には、建築家が考える以上にポストモダンの陥穽から抜け出すには相当大変な議論であると思った。それは、哲学において永続的に付きまとう問題であると思うと同時に、ふと建築においても、それと似たようなループがあると思った。実在論と観念論という対立のように、建築でも何かと何かを対立させることは多いが、その根本にあるループとは何だろうか。そして、そこから抜け出した先にどういう建築が現れるのか。本議論は、ずいぶん大きな問いを建築にも投げかけたように思った。


評者:楊光耀

加筆:仲山ひふみ

(註)p.14『現代思想2019年6月号―加速主義』青土社