ヒッピー村での自給自足生活の観察から、暗渠や高架下のフィールドワークまで、どこを切りとってもとにかく平凡であり続ける記録の変遷についての話をさせていただきます。
僕は今まで自分の行為を言葉にしてこなかったので、今回のメニカンにおける批評や考察を通して思考を共有していくことが新鮮でとても有難いことでもあり、また震え上がっているところでもあります。なにかと客観性を失うような専門的な話はそこまで好きではなく、また最近は特に他分野の方や建築を学び始めた方の意見が心の芯に突き刺さるので、建築分野以外の方々の参加も楽しみにしています。
レビューのレビュー
基本的には設計にしろ研究にしろ、現地に行って一緒に暮らしてみるとか、ひたすら歩いてスケッチしてみるとか、何回も訪れて写真を撮ったり地図にプロットしてみたりと、なにかを観察してそれを記録に残すということをやってきた。しかしリサーチとデザインの境界はどうしてもある。これまで二つの間をどうにか揺さぶりたいと思い試行錯誤してきたがうまくいかないので、「観察と記録」に関する変遷図を用いて、描いた本人以外もこれがどう作られてどんなものなのかを共有し議論できるように洗いざらい、正直にレビューをした(ポジティブなことはほとんど書かれていない)。
議論は大きく3つのトピックに分かれていて、
- スケッチ、ドローイングと建築の関わり方について - これはむしろ僕以外の意見がもっと聞きたかった...。
- 変遷図のスケッチ・ドローイングのカテゴライズ -博士課程以前以後の傾向の指摘にはドキッとした。単にスケッチとドローイングの2種類ではなく、それらに込められた希望(資源を抽出したい、周辺との関係を見せたい、場所の空気を共感させたい)がそれぞれ異なり、理解→共有→表現のどこに位置づけられるかによって変わることを把握した。
- 僕の興味の対象(研究の対象)について - 対外的ではなく個人的な興味についての質問や、都市化によって生まれたヒッピー・暗渠・塀・高架下を受け入れて観察し、うまく活用できるように運ぼうとするスタンスについてまとめてもらうことで、客観的に自分が取り組んでいることを整理できた。
個人的にはもっと一般的な議論まで広がることを期待していたが(僕の話が多めで有難いと同時に申し訳ない)、それはまた次の機会に。議論の中で出た、「民俗学」、「アーカイブ」についてはかなりピンと来るところもあり、僕自身図面を引くことよりも絵を描くことのほうが好きなので(でも建築は好き)、これからも自由に黙々と絵を描いていき、絵が溜まったらまた皆さんに見ていただければいいなと思っている。
19.11.14 saito naoki
レビューのレビューのレビュー
斎藤くんのスケッチ・ドローイングはまずは彼の[描きたい]という欲望に端を発している。それはリサーチにせよ、デザインにせよ、如実にあらわれているように僕にはみえる。
その前提にあるのは、場所への愛着だろう。愛着をもって眼差しを向けること、そして対象を記述する。斎藤くんが注目するのは、都市のなかで少し公私がねじれているところ。暗渠や高架下、そしてヒッピーの活動。そこに愛着を感じ、描きたいという気持ちがうまれることに僕は共感する。
ヒッピーの活動でいえば、僕も60年代アメリカのヒッピーの活動に興味を持ち、研究をしてみたことがある。彼らの活動は均質化・画一化する生活への対抗文化であったが、名を持たない活動は短命に終わることが多い。であればその活動を名付けることができればいいのだが、それができるのは、内側の者たちが共有する理念か、外側の人たちが行うリサーチに基づくのではないかと思う。
この「名を与える作業」というのが、実際にやってみると難しい。まだ名を持たない活動に愛着をもって眼差しを向けることと、実際に観察し、分類し、ひとつひとつの行為に意味を持たせることはときに両立しない。
斎藤くんの「観察と記録」の変遷図には、その試行錯誤と苦悩があらわれていた。描く対象も、描くことの目的も、描く際のレファレンスも、個々に異なる。するとふと描くこと自体も、本来は「名を持たない活動」なのかもしれないと思う。
何も考えず目の前の対象を描くときのスケッチが一番、主観的で、対象に没入し、鑑賞者がそこに描かれたものの意味を考えなくて良いもの、「名を持たない活動」をそのまま書き写したように描けるのかもしれない。プレゼンテーション用のドローイングは、そこに描かれた意味を鑑賞者に読み取ってもらえるように、俯瞰し、覚醒した状態で描かれたもので、それは絵の前で立ち止まってじっくりと鑑賞してもらうのがいいのかもしれない。
しかし、そうやって描くことを分類していっても、スケッチ/ドローイングが手法になってしまい、表現や欲望が矮小化されてしまう危惧がある。
だから、斎藤くんのいう通り、黙々と彼によって描かれた絵が再び溜まっていったときに、また見せてもらって、描くことの可能性をみんなと共有することができれば、と今は思う。「名を与える作業」が「名を持たない活動」のまま、継続していくために。
20.02.09 terada shimpei